The tale of Mejiro McQueen

メジロマックイーン物語『栄光と挫折は紙一重』 - 第二章 「舞台の幕開け」

 1990年2月3日、阪神競馬場。
 折からの強い雨でダートコースは、びしょびしょの不良馬場となっていた。
 最悪のコンディションの中、メジロマックイーンは兄メジロデュレンの主戦騎手を務めた村本善之騎手を背に、見事初陣を飾る。2着のハギノレジェンドに付けた着差は1と3/4。
 着差はわずかだが、3着以下には大差を付け、先行から押し切るという全くの横綱相撲で圧勝であった。
 強いが、ともすればやや地味な印象のある初戦の勝ち方だったが、玄人受けしたマックイーンの生涯がここに集約されていたのかもしれない。
 底知れない強さを感じた陣営も、ダービーを意識したローテーションを組んでいく。

 だがことは思うようには運ばない。
 2月25日のゆきやなぎ賞、一息入れた後の5月12日のあやめ賞と、共に単勝1倍台の圧倒的一番人気に推されたが勝利を手にすることはできなかった。
 原因は若駒特有の疾病である「ソエ」だった。
 満足な動きができないと判断した陣営は、ここであっさりとダービーを諦め、秋に備えて休養させることを決断する。

 この背景にはある馬の存在があった。
 マックイーンの同期生で、牧場時代に圧倒的な評価を受けていた『輝光』である。
 メジロライアンと名付けられた『輝光』は、未勝利脱出にこそ時間がかかったが、初勝利後は順調に階段を駆け上がりGII 弥生賞を制覇。続く皐月賞ではハクタイセイの後塵を拝し3着に敗れたものの、そのレース内容からダービーでの最有力候補に挙げられていた。
 鞍上は新進気鋭の横山典弘。
 メジロの関係者、誰もがメジロライアンのダービー優勝を信じて疑わなかった。
 ダービー制覇はメジロ牧場の悲願ではあったが、メジロライアンという絶対の武器を持っている以上、マックイーンが無理をする理由は何処にもなかったのである。

「赤い帽子がただ一騎。メジロライアン突っ込んできた……」
 しかしライアンは勝てなかった。東京の長い直線を猛然と追い込んできたが、前を行く馬影を捕まえきるまで至らなかった。
「できることなら全財産投げ打ってでも、一番人気にしてやりたい」
 酒を片手に親しい記者へ、自信に溢れた胸のうちをそっと明かした中野栄治。
「ナカノ!ナカノ!」20万人の観客から地鳴りのように湧き上がった勝者へのコールを、メジロの陣営はどんな気持ちで聞いたのだろうか。
 アイネスフウジンはその後、屈腱炎を発症して引退。まさに身も心もターフに捧げた末のダービー制覇だった。

 9月。
 夏の暑さがまだ残る函館競馬場に、マックイーンの姿があった。

 ソエもすっかり治まった彼の様子を見た陣営は、この秋最大の目標を菊花賞へと見定めた。だが最下級条件のマックイーンが菊花賞へ出走するには、一つ一つクラスを卒業して賞金を加算する必要があった。
 まず復帰初戦に選んだのは9月2日函館競馬場、500万条件の渡島特別、ダート1700m。
 この先の連戦を睨み、足元への負担を考え、万全を期してのダート戦。だがここに思わぬ強豪が潜んでいた。
 後にダートの古豪としてその名を轟かせるマンジュデンカブトである。

 このレースを2着に落とし、マックイーンの菊花賞への道のりは確実に狭まっていた。
 そして陣営は、彼の強さを信じ、彼の生涯でもっとも過酷なローテーションを選択していく。

 中一週で迎えた第五戦は9月16日、同じく函館競馬場の500万条件の木古内特別。やや強引とも思える逃げの形で無理矢理に勝利をもぎ取ると、「疲れはない」と判断した陣営は連闘を決断。
 休み明けから中一週、そして連闘。
 あまりに厳しい条件ではあったが、マックイーンは見事にそれらをはねのけ芝2000Mの900万条件、大沼Sを勝利する。

 それでも菊花賞出走の確定ランプが灯らない。
 菊花賞出走を確実な物にするためには、もう一つ勝っておく必要があった。そこで選ばれたのは菊花賞と同じ条件、京都の芝3000Mで行われる1500万条件、嵐山Sである。ここを勝てば菊花賞に出走できる。

 ことは嵐山Sの最終追い切りで起こった。
 マックイーンの調教パートナーに、あのメジロライアンが選ばれていた。いや正確に言えば、ライアンの稽古相手としてマックイーン陣営に声がかかった。
 同じ週の土曜日に嵐山S、日曜日に京都新聞杯が行われることもあり、早めに栗東トレーニングセンターへと入厩していたライアンとマックイーンが併せ馬をすることになったのだ。

「ライアンの胸を借ります。お手柔らかに……」
 だが池江調教師の偽りなき本音をひっくり返す、意外な光景が目の前に広げられていた。
 押せど叩けどライアンがマックイーンを交わせない。結局、終始手応えが楽なままマックイーンがライアンをいなしてしまう。ライアンが休み明けで、しかも調教駆けをしないこともあり、競馬マスコミの多くがマックイーンを相手にすることはなかったが、ライアンの調教師である奥平真治は、この追い切りでかなりの警戒感を抱くようになる。
「菊花賞にマックイーンが出てきたら、やられるかもしれない」
 そしてマック陣営、とりわけこの秋からマックイーンの背に跨っていた池江厩舎所属の若手ジョッキー、内田浩一の胸には確信めいたものが沸いていた。
「この馬となら、ひょっとしたらGIを勝てるかも」

 自分の稼ぎで妹の学費を払っているという真面目で心優しい青年は、華やかな舞台には縁がなかったが、マックイーンとの出会いはまさに千載一遇のチャンスだった。
「菊花賞に出られさえすれば……」
 しかし人の願いは神様にとっては面白い遊び道具のひとつなのか、人が願えば願うほど、神様はそれ相応の罠を願い人へ仕掛ける。そして願いから遠ざけようとする。

「そこにいたらまずいぞ」
 双眼鏡越しに写るマックイーンの姿が、馬群の中に包まれていく。
 嵐山Sでもマックイーンは圧倒的な1番人気に推され、ここをしっかりと勝って菊花賞への切符を手にするはずだった。
「まずい」
 内田がそう感じた刹那、あっという間にマックイーンと内田は進むべき進路を見失う。坂を下りきっても馬群はばらけない。行くところ、行くところ、前には馬の壁。
 内、外と激しく手綱を動かして行くべき路を探すが、抜けられるようなスペースは見つからない。残り150を過ぎてようやく馬群の外へとマックイーンを持ち出し、猛然と追い込んだが時既に遅し。
 誰の目にも明らかに脚を余していた。運が無かったと言えばそれまでだが、馬の力差は歴然で、不測の事態を頭に入れて乗ることの出来なかった内田のミスは明らかだった。
 真っ青な顔をした内田浩一は、黙ったまま検量室へと消えた。

 翌日に行われた京都新聞杯ではメジロライアンが鮮やかに休み明けを飾り、菊花賞の最有力馬としての地位を確実なものとした。つい数日前に行われた調教とは、見事なまでに明暗をくっきり分けた。
 内田にとっての生涯で最大のチャンスは、蜃気楼のようにぼやけたものとなっていた。

 レース後、若手騎手を預かる調教師としてのジレンマに池江敏郎は悩まされていた。
 マックイーンが菊花賞に出られるとして、はたして鞍上をどうするのか。前走ミスを犯してしまった内田でいくのか、それとも他のベテラン騎手にスイッチするのか。自分の愛弟子は可愛い。だがここはプロの世界。愛弟子と言えども、時に非情な決断を下さなくてはいけない。
 分かってはいるが、それでも池江は厳しい決断を下せずにいた。

 メジロマーシャスを天皇賞秋に送り込んでいた池江は、東京競馬場のスタンドでメジロ牧場の総帥、北野ミヤ氏と会い、そして自分の口から切り出した。
「菊花賞の鞍上なのですが……」
 言葉をさえぎるようにミヤ氏が口を挟む。
「池江さん、一度のミスで若い人を降ろしてしまったら可哀想ですよ。菊花賞も内田くんでいきましょう」

「今度はしっかり乗ってこい」
 菊花賞のパドックで池江は愛弟子に言葉をかけた。内田は「はい」とだけ答え、小さくうなずいた。
 内田とマックイーンを襲った一つの失敗が、結果的に内田から迷いを消していた。
「下手な小細工はせずに、マックイーンの能力を発揮させることだけ考えよう」

 1990年11月4日、第51回菊花賞の舞台にマックイーンと内田浩一の姿があった。本来ならば3頭分の出走枠を巡って5頭で抽選が行われるはずだったが、回避馬が出たために、マックイーンは運良く無条件でこの舞台のチケットを手に入れていた。
 雨が降り注ぐ淀のターフは完全に濡れ、馬場状態は重にまで悪化していた。

 レースはマイネルガイストの逃げで始まった。4番人気とダークホース的な立場に推奨されていたマックイーンは、折り合いに気をつけながら内々の5,6番手を進む。1番人気のメジロライアンは、いつも通り中団から後方に待機。そしてライアン共々悲願のGIタイトル奪取に燃える2番人気のホワイトストーンは、ライアンのさらに後ろの内を追走していた。
 ホワイトストーンはダービーで12番人気の低評価ながらアイネスフウジン、メジロライアンに次ぐ3着を確保。そして、ひと夏を越しセントライト記念を完勝したことから実力が認められ、一躍菊花賞の有力候補になった馬である。
 長距離レースらしくゆったりとした流れの中、はじめに動き出したのはマックイーンだった。

 3コーナーの下り手前から徐々に動き出し、4角手前では既に先頭へ並ばんとする勢い。
 そしてその波長にあわせるが如く、関西テレビの名物アナウンサー杉本清もテンションを上げる。
「不気味な黒い帽子がここに……」
「マックイーンにここですんなり行かれたら負ける」騎手としての直感が、横山典弘を勝負へ動かせる。マックイーンの力を信じた内田の早めのスパートに、ライアンの力を信じる横山典弘が呼応する。
 マックイーンが先頭に並びかけんとするそのすぐ後方には、ライアンが迫っていた。直線までじっくり脚を溜めていく本来の形ではなく、力でマックイーンを負かしにいったのだ。
 だがそんな若手騎手たちの激しい争いに、「勝負は力だけじゃないのだ」と言わんばかりに、内でワンタイミング追い出しを遅らせていた白い影が迫る。ベテラン柴田政人が手綱を握るホワイトストーンだった。

 力と力の勝負に技と経験で迫る。
 残り200を切り、マックイーンを真ん中に内にホワイトストーン、外にメジロライアンという激しい競り合いが繰り広げられる。しかしそんな鮮やかな構図も徐々に色をなくしていく。
 横山典弘の激に応えきれなくなったライアンがまず脱落。
 続いて、内でじっくり力を溜めていたはずのホワイトストーン。マックイーンに何とか必死に食い下がるも、まるで目に見えない壁でもあるかのごとくその差が詰まらない。マックイーンとの距離が縮められぬまま、やがて心が折れてしまう。

 内田浩一はマックイーンの力を信じぬき、そしてその信頼を裏切らない強さをマックイーンは見せた。
 あの時の失敗がマックイーンを心から信じるという強さを、内田に与えていた。嵐山Sでの失敗がなければ、もしかしたらこの大舞台で下手な小細工をしかけ、それこそ大一番で取り返しのつかないミスをしていたかもしれない。

 ミスは誰しもがいやな経験として記憶に残る。しかしながら「あの時失敗してよかった」そう思える事がたくさんあるのもまた人生だ。この栄光も挫折があったからこそと言えるだろう。
 内田は失敗の経験から、マックイーンの力を信じぬく心の強さを手に入れていた。

「メジロはメジロでもマックイーンの方だ!!!」
 杉本清の名文句が初舞台の頭上で響きわたっていた。

第一章 「オーロラの62」

第二章 「舞台の幕開け

第三章 「宿命」

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