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The tale of Mejiro McQueen

メジロマックイーン物語『栄光と挫折は紙一重』 - 第三章 「宿命」

 メジロマックイーンの祖父、メジロアサマは1966年2月23日にシンボリ牧場で生まれた。

 ある日、仔馬の購入のために北野ミヤと共にシンボリ牧場を訪れた北野豊吉は、一頭の芦毛馬に目を奪われる。牧場の関係者はGIをいくつも勝ったスピードシンボリの弟を何度も薦めたのだが、北野豊吉は頑として聞き入れず、結局この芦毛馬を購入する。それがメジロアサマだった。

 名門、尾形藤吉厩舎の門をくぐったメジロアサマは、北野豊吉の相馬眼の正しさを見事に証明していった。5歳(現在の4歳)時に安田記念を制し、秋には北野豊吉が愛した天皇賞を制覇する。自分の発掘してきたアサマが大好きな天皇賞を制覇したことは、前年のメジロタイヨウに続いての連覇ということも重なり、北野豊吉に最大限の喜びを与えた。

 豊吉の期待に応え7歳(現6歳)まで走りきったメジロアサマは種牡馬入りを果たし、1973年春から種付けを開始する。だがそこで、これまで順風満帆に歩んできたアサマは試練を背負うことになる。
 28頭に種付けして受胎馬は0。たったの一頭も受胎しなかったのである。
 精密検査を受けた結果、アサマの精子の数は異常に少ないことが判明する。精子が少なくなってしまった原因の一つに、アサマが現役当時に流行っていた馬のインフルエンザ対策の抗生剤を挙げる人は多かったが、今でもそれは定かではない。

 メジロアサマは種牡馬失格の烙印を押されてしまう。
 世間には「種なしスイカ」と揶揄され、このニュースを聞きつけたとある神社からは「神馬として譲ってくれないか」というオファーさえ届いた。
 話を効いた豊吉は激怒しながらこう叫んだという。
「誰がアサマを神馬なんかにするものか。こんな一流馬を神馬なんかにしたら、それこそバチが当たるぞ! 精子の数が0じゃないなら、受胎する可能性だって0じゃない。何とかアサマの仔で天皇賞を獲るんだ!!」

 豊吉は神へ挑戦状を叩きつけた。

 2年目の種付けではアラブの馬が一頭受胎した。そして3年目の種付けでは初めてサラブレットの受胎を確認する。これが豊吉にさらに拍車をかけたが、現場を預かる牧場スタッフは複雑な思いで豊吉の言葉に耳を傾けていた。

 メジロ牧場はオーナーブリーダーである。馬が走らなければ潰れてしまう。受胎もしないということは、賞金を稼ぐ可能性すら生み出せない。つまり走る走らない以前の問題、生活の根源を揺さぶられる大問題なのである。
 だが周囲の心配をよそに、豊吉はアサマへの種付けを指示し続けた。そして現場スタッフが一番恐れていた禁断のパンドラに手をかける。
「シェリルにアサマを付けろ」

 シェリルは豊吉がフランスで購買してきた馬で、豊吉名義のままフランスで競争生活を過ごし重賞ウィナーにまでなった名牝である。今の1億や2億の価値がある繁殖牝馬だろう。それにアサマを付けるのはもはや執念を超えた狂気の域、大博打以外の何物でもなかった。
 だが誰しもがメジロの終焉を予感にした無謀な賭けに、豊吉は見事に打ち勝つ。

 アサマの種を奇跡的に宿したシェリルは、1978年3月22日にアサマと同じ芦毛の体をした牡馬を産み落とす。
 そして1982年10月31日、メジロティターンと名付けられたアサマとシェリルの仔は、伊藤正徳現調教師を背に東京の3200をレコードで駆け抜けた。
 それは豊吉の執念が神の悪戯を振り払い、願いが天を貫いた瞬間だった。ティターンは第86回天皇賞秋を制し、アサマとの親子二代天皇賞制覇を果たす。
 メジロアサマが種牡馬失格と言われてから、実に9年の歳月が過ぎていた。

 メジロティターンは1984年に現役を退き種牡馬入りする。
 その年のある日、豊吉は珍しく息子達を自分の部屋へ呼び出すとこう伝えた。
「アサマで天皇賞を勝った。そしてその仔ティターンでも天皇賞を勝てた。後はティターンの子供で天皇賞を勝てたら、もう思い残す事はない。何とかこの夢を実現させてくれ」
 そのことを不意に伝えた翌日、豊吉は突然、天へと旅立ってしまう。
 まるで己の運命を悟っていたかのように残された最後の願いは、豊吉の遺言となりメジロ牧場に宿命を与えた。

「ティターンの仔で天皇賞を」

 1987年の春、生まれてきた栗色の子馬に触れた人間は、口々に言葉をこぼした。
「この仔で勝てなければ、ティターンの子供はもう駄目だ……」

第二章 「舞台の幕開け」

第三章 「宿命」

第四章 「盾獲り物語、第三幕」

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